復活の主とペテロ
- 日本語キリスト教会 デュッセルドルフ
- 5月3日
- 読了時間: 4分
聖書箇所:ヨハネ21章
主題:私たちのために死によみがえられた主イエスのために生きる。
暗唱聖句:「あなたは、わたしに従いなさい」ヨハネ21.22
目標:例え失敗しても赦してくださる主に感謝し、主を愛して従う者となる。
イエス様が十字架につけられる日の夜明け前、「イエスなんて知らない」と三度も言ったのは誰でしたか?そう、ペテロです。ペテロはよみがえられたイエス様にお会いして嬉しい反面、「イエス様ごめんなさい」という気持ちでいっぱいだったでしょう。そんなペテロにイエス様はある質問をなさいました。
イエス様を裏切ったペテロがどのように変えられ、主のために生きるものになったかを見ていきましょう。
1.岸辺に立っていらっしゃったイエス様
弟子たちは、よみがえったイエス様に会えた後、もともと住んでいたガリラヤ湖の近くに帰っていきました。前は湖で漁師をしていたペテロが、「私は漁に行くよ」と言うと、他の六人の弟子も一緒に行くことにしました。一晩中漁をしていましたが、魚は一匹も網にかかりませんでした。夜明け頃、弟子たちは船の上で、誰かが岸に立っているのに気がつきました。その人影が岸辺から「魚が捕れないのですね」と聞くので、「捕れません」と答えると、その人は「舟の右側に網をおろしてごらんなさい。そうすれば、捕れますよ」と言うのです。言われた通りにしてみると、重くて引き上げられないほどたくさんの魚がかかりました。その時ヨハネが気づいて言いました。「あれはイエス様だ」ペテロはそれを聞くと、裸だったので服を着て湖に飛び込み、岸まで泳ぎ始めました。他の弟子たちは、そのまま舟で網を引いて、岸にたどり着きました。岸辺には炭火がおこしてあり、その上で魚が焼かれ、パンもありました。「さあ、朝の食事をしなさい」イエス様は、感謝のお祈りをして、パンと魚を分けて下さいました。また、一緒に食事ができるなんて、弟子たちはどんなに嬉しかったことでしょう。
2.ペテロに問いかけるイエス様
ただ、ペテロは喜びつつも心の中に解決されていない問題がありました。イエスが捕らえられた時、三回もイエスとの関係を否定し、イエスを見捨てた罪についてです。イエスはそんなペテロにこう問いかけて下さいました。15~16節を読みましょう。
15.彼らが食事を済ませた時、イエスはシモンペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上に私を愛しますか」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です」イエスは彼に言われた。「私の子羊を飼いなさい」
16.イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは私を愛しますか」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することはあなたがご存知です」イエスは彼に言われた。「私の羊を牧しなさい」
17.イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、わたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存知です。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい」
イエス様は、犯した罪を責めるのではなく、ペテロの愛を確認しようとなさっています。再起しようとするペテロにイエスがお求めになったことは、覚悟や反省ではなくイエスへの愛でした。ペテロは自分の犯した罪を覚えて心を痛めます。以前は自信がなかったかもしれませんが今なお自分を愛し、また自分が愛する道を備えて下さっているイエスに応答し、「わたしがあなたを愛していることはあなたがご存知です」と言いました。こんな自分でも主を愛している。イエスのために生きていきたいと伝えるのです。イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃいました。ペテロはイエスの使命を受け継ぎ、人々を養い育てる大切な働きを担うことになったのです。イエスのペテロに対する思いは、何も変わっていませんでした。
3.主イエスに従う
新たな使命を与えられたペテロは、イエスのために生きる生き方へと再び踏み出していきます。その道には困難が待ち受けていることも、またはっきりと告げられました。どのような死に方をするかがはっきり示されたのです。イエスのために生きるとき、自分の願いの通りではない方法で神の栄光を現わすことがあります。これにペテロは思わず尻込みしたでしょう。それは、自分だけなのか、他の弟子はどうなのか気になり「この人はどうですか」と尋ねるとイエスは「あなたはわたしに従いなさい」とはっきりおっしゃいました。他の人がどうかは関係なくイエスと共に生きる新しい命を歩みぬくようにと励まされたのです。私たちは、「愛されている」と言う事実に立つとき、イエスに従うということができます。罪を犯す弱い私たちがこの祝福へと招かれている。それは大きな幸いです。